人生って誰もが恵まれているわけでもなく、中には壮絶な生い立ちにもかかわらず、今は華やかな芸能界で活躍する人実は悲しい過去が、、・
そんな壮絶な生い立ちを持ちながらも活躍している芸能人って、いったい誰?
出典吉本興業
いつも笑顔で明るい明石家さんまさんですが、実は子供とのときは辛く悲しい体験をしています。兄と2人兄弟のさんまさんは、3歳の時に母親を亡くしてしまいます。そして、小学生になると父が再婚、その継母には連れ子の男の子がいました。
実の息子ばかり可愛がり義母。ある時、継母が酒を飲みながら、「私の子供は、三男だけ」と言っているのが壁越しに聞こえ、子供だったさんまさんは兄と2人でよく泣いていたたそうです。それからさんまさんは、母に興味を持ってもらおうと、笑いを取るために必死に面白い発言ばかりしていましたが、しかし、いつもまるでいないかのように継母に無視されていたそうです。それでも、さんまさんは、その弟さんとは仲が良く、とても可愛がっていていました。弟さんも、さんまさんが言うことがすべて正しいと思っていて、さんまさんのことをとても慕っていたそうです。
1983年、さんまさんが27歳の時に悲劇が訪れます。実家が火事になり、その弟さんが19歳という若さで焼死してしまいました。
すでにさんまさんは、冠番組を持つほど売れっ子タレントでしたが、弟の死があまりにもショックで、悲しい落ち込みが続きしばらく笑いを取ることさえもできず、もう引退を考えているほどでした。
そこへ、オール阪神・巨人の阪神さんが、同じ舞台に出演した際にー、
阪神さんが観客がいる舞台の上で、はなった言葉は、
「おまんち、兄弟焼いたんだってな」と、さんまさんにツッコミました。
こんな大直球のツッコミに、頭の回転の早いさんまさんは、”これは阪神さんの愛情だ”とすぐにわかり、「材木切れたんで、焼いたんや」とボケで言い返し、舞台も大成功に終わりました。
舞台後、さんまさんはオール阪神さんに「ありがとう、これで辞めないで済むわ」と涙しながら感謝したそうです。
その後も、人気スター大忙しだったさんまさんですが、1985年8月12日、フジテレビでのいつものように「オレたちひょうきん族」の収録があったのでうが、収録がこの日は予定より早めに終わったため、いつも搭乗する日本航空123便よりも、一つ早い便にその日変更したそうです。
そして、その乗るはずだった123便が、日本史上最悪の事故「日本航空123便墜落事故」が起きてしまいました。これには、さんまさんもショックのあまり、次のラジオの生放送で、言葉が出てこず話せなかったそうです。
いつも笑って明るいさんまさんに、こんな辛い経験があるとは、テレビでは微塵にも見せなかったですが、彼がいつも言う座右の銘は、「生きてるだけで、丸儲け」。さんまさんの悲しい経験からきているものからなのでしょうね。さんまさんに子供が出来た際に、この言葉の「生きる」「丸儲け」の言葉をとり「IMARU」さんと名付けたとも語っています。
父親がスペイン系メキシコ人で、母親が日本人のハーフで、メキシコで生まれた政井さん。
しかし、2歳の時、スキー帰りの両親が交通事故にあい、亡くなってしまいます。その後、兵庫県に住む母方の叔母夫婦に兄と一緒に引き取られ、育てられたそうです。
政井さんはのちにテレビで、育ての両親が愛情を注いでくれて、とても感謝している。育ての父とは血が繋がっていないけれど「私にとっては「父」そのもの。父のことは大好きで尊敬できる人。父が愛してくれたことで、私も家族や他の人を愛せるし、人を助けたりしたいと使命感を感じていると話しています。実の父も育ての父も医師で、ボランティアに尽力したそうです。
政井さんも、2007年に俳優、元モデルの前川泰之さんと結婚し、1女2男を授かり幸せな家庭を気付いています。
出典オフィサルサイト
シンガーソングライターの川嶋あいさんですが、実父は行方不明のまま生まれ、実母も出産後に体調を崩してしまい、乳児院に引き取られました。そして、母の体調は回復しないまま、川嶋さんが3歳の時に亡くなってしまいます。
その後、養護施設へ移り、新しい家族に迎え入れ、川嶋家の養女となりました。人見知りだった彼女に音楽を習わせたのがきっかけで、歌手を志すようになったそうです。
数多くヒット曲を持つ川嶋あいさんの曲は、本当にどれも心にしみる名曲です。
これまでずっと本当のことを隠していました仲川さんですが、今年「爆報!THEフライデー」で、自身の生い立ちをカミングアウトしました。
仲川さんは、無名のプロレスラーの父と、専業主婦だった母との間に、4人兄弟の次女として生まれました。
しかし、3歳のとき、両親が離婚。親権は父が持ち母が出て行くことになりました。
しかし、やはり仕事をしながら子育ては難しく、兄弟たちは、祖母の家に預けられることにー。
都営住宅に住み、生活も貧しく、食事はいつもご飯となめたけだけ。しかし、その祖母が心臓病で入院してしまい、子供達が児童養護施設に行くとこになったそうです。
そんな仲川さんも、18歳でAKBメンバー入りを果たし、生活できるように。
しかし、周りには、
本当のことが恥ずかしくて、これまで嘘の家庭構成を作って、自身がちゃんとした家庭で育ったと話していたことが多かった。自身の生い立ちがとても「恥」と思っていて言えなかったそうです。
ひたすら隠しながらアイドルを続け、2018年に日本での活動は終了、プロダクション尾木から、2019年に電通インドネシアに移籍します。そしてさらなる不幸が、
養護施設で一緒に過ごした姉5が亡くなったとSNSで報告したのです(享年28歳)。
苦労を共にしたかけが家のない家族がなくなり、辛かったと思います。しかしこのSNS上で報告した文章が、絵文字入りだったり、訃報の内容にふさわしくないと批判されてしまいました。お姉さんの死因は、子宮ガンの合併症による心不全でお亡くなりになったので、壮絶な闘病をされていたのもおそらく知っていて覚悟はできておられたんだと思います。家族が亡くなった悲しみは本当にいつまでも消えることなく胸に残りますが、お姉さんの分も元気に、そして活躍されること、お姉さんも願っているでしょう。
出典ブログ
保坂さんは、6歳の時に、交通事故にあい、一時意識不明の重傷となり、4ヶ月の入院。やっと退院でき家族の元に帰った3日後に悲劇が襲いました。
保坂さんは、4歳年下の妹と両親、祖母と暮らしていました。いつも兄弟は2階で寝ることになっていたのに、その日は父が、「1階で寝なさい」と言い、翌朝起きてみると、両親が自殺しており、すでに警察が来てたそうです。
その後は、叔父の家へ、そして祖母の家に移ります。まだ小学生だったにもかかわらず、祖母に迷惑かけないよう家事、炊事を自分でやっていたそうです。しかし、保坂さんが9歳のとき、その祖母が脳溢血で倒れてしまいます。
駆けつけた叔母が放った言葉が「あなたたちが迷惑かけるから」と。その言葉に、まだ9歳にもかかわらず、自立することを決め、お金を稼ぐために働いたそうです。ペットショップで隠れて働き、中学校に上がると内緒でイタリアンレストランに勤めたり、必死に働き100万円を貯めた時点で、そのお金を祖母と妹にわたし、上京。東京でスカウトされ芸能界に入ります。
1996年には、女優の高岡早紀さんと結婚。二人の間に二児をもうけます。しかし高岡早紀がミュージシャンの布袋寅泰と不倫疑惑が浮上し2004年6月に離婚。
今の保坂さんは、通販事業を立ち上げ、成功していることでも有名ですよね。その年商は10億円にもなるそうです。
祖母が倒れたのをきっかけに、子供の時から家族のために働き、ペットショップで雇ってもらうと、ハムスターを繁殖させ卸し稼いでいたそうなので、子供の頃から商才があったかもしれないですね。
田中さんは1995年に東京生まれ、しかし、小学校低学年で両親が離婚してしまします。父に引き取られるも、その父から虐待を受けて、7歳の時に4つ上の姉と児童養護施設入ります。父から暴力を受けていたそうですから、周りが気付いて施設へ保護したのか、4つ上の姉は11歳だったので自分たちで助けを求めたのか、公言されていないので、わかりませんでしたが、幼くしてそれは辛い経験だったと思います。
児童養護施設は、18歳で卒園しなければならなく、そこからは厳しい生活だったそう。保育士の資格も取得しました。そして、21歳の時にファッションショーに起用され、読者モデル。ミスユニバース2018茨城大会では、準グランプリに選ばれモデルの道へ。
現在は、施設で暮らす子どもと施設のことをまったく知らない人を結ぶ「架け橋」としてSNSで発信し、施設で暮らした経験を生かす様々な活動に取り組んでいるそうです。
出典公式サイト
戦後の被曝を受けた広島生まれ。
父はその原爆被爆者で病状が芳しくなく、3歳の時に、そんな父と矢沢さんを置いて、母親は蒸発してしまいます。その父も小学校2年の時に他界。矢沢さんは、親戚をたらい回しにされた後、祖母と暮らします。
生活は苦しく、生活保護を受けており、そのことで食べ物をぶつけられるなど、いじめにあっていたそうです。
この時から、ビッグになってやると誓ったと自身の著書でも語っています。
出典ビクター
実は酒井法子さんが生まれた時、父は刑務所の中にいたと言われています。
父親は、山口組系酒井組の組長だったようで、服役していた理由はわかりませんが、覚せい剤の売買をし服役、破門になっていたようです。
母親は、父親が服役している間に、若い男と駆け落ちし蒸発。まだ赤子の酒井さんは、寺に捨てられていたそうです。
その後は父の妹の元で暮らします。7歳になると、父が出所することになり、今まで母と思っていた叔母から、
「本当はうちの子ではないんだよ。父親が引き取りたいと言っているけれど、どうする?」
と告げられたそうです。まだ7歳の子供には理解できないほどの衝撃だったと思います。叔母も残酷のように聞こえますが、酒井さんが母と思っていたというほど、叔母も7年間我が子のように育ててきたんだと思います。叔母も赤子のことから育てて、別れが辛かったかもしレません。
のちにですが、酒井さんを捨てた母親は、3歳の時に自殺に見せかけ殺されたことを知ることになります。
7歳の酒井さんは父に連れられ福岡で、再婚相手の継母と暮らすことに。
転機は、1986年、酒井さんが14歳の時、ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に出場し、グランプリには選ばれなかったものの、サンミュージックの目に止まり、芸能界入り社長の家で下宿します。デビューしてからは、ドラマに活躍、売れっ子アイドル歌手となりました。しかし、デビュー4年後18歳の時に、父が交通事故で亡くなりますが、その事故には謎がある不審死でした。
すでに人気アイドルだったため、父の死因や職業も世間に知られることになりました。そして、さらなる追い打ちが、、、。
実は、父親は、再婚、離婚を繰り返しており、酒井さんには、異母兄弟がいたそうです。その異母兄弟の弟が、覚せい剤で逮捕。暴力団の組員をしていたそうです。
そして、酒井さん自身も2009年に覚せい剤で逮捕。
生まれた時から壮絶な生い立ちにさらされ、芸能界でやっとチャンスをつかみ、結婚、出産と幸せをつかできていたのに、酒井さんも覚せい剤に溺れていたとは残念でならないです。
現在は、更生し少しづつ復帰していますが、母として子供のためにも、辛い思いをさせないよう努めてもらいたいですね。
人の将来は、決して生い立ちで決まるものではなく、裕福でも貧しくても自身の努力がなければ成功はしないでしょう。そんな中でも幼い頃に辛い経験をされていると、しっかりと物事を考え自立しているのかもしれません。
芸能界は、人に夢を与える仕事。成功の秘訣は、明るい未来に向けて、常に前を向いて進むことかもしれませんね。