<アントニオ猪木ダイジェスト>燃える闘魂!猪木信者の有名人は? 「監禁事件」「アリとの世紀の一戦」結婚・家族—

昭和の時代、子供達だけでなく多くの人々に愛され続けている元プロレスラーのアントニオ猪木さん。プロレスファンだけでなく、昭和の時代に、家族のお茶の間にはいつも”アントニオ猪木”がいました。猪木選手は、「男子にはロマン、女子にはヒーロー」私たち青春の1ページでもあります。トップ画像出典gendai

そんな私たちのヒーロー、アントニオ猪木さんの歴史を振り返ると、その功績はあまりに膨大すぎて全てを、触りだけでも語リきれません。そこで猪木さんのダイジェストの、さらにダイジェストで、今回は追ってみたいと思います。

猪木さんはプロレスの世界で圧倒的な人気を放つだけではく、引退後は参議院議員として活躍するなど、幅広く活躍しています。結婚・離婚も経験あり。そして、あの猪木が監禁される事件も・・・・

まずは、猪木年表で見てみましょう。

 

 アントニオ猪木

出典:youtube最後の闘魂

 本名:猪木 寛至

 1943年2月20日(現在78歳)

 出身:神奈川県横浜市生まれ

 結婚:4回

 有名な家族:長女・猪木寛子

 職業:元プロレスラー、実業家、政治家      

 

猪木ダイジェスト

<猪木年表>

1943年 神奈川県横浜市で生まれる。父は5歳の時に他界。

1956年 13歳の時 一家で貧困から脱出するためブラジル・サンパウロに移住

1960年 サンパウロで力道山と出会い、スカウトされ日本プロレスに入団デビュー

1964年 アメリカに武者奉行へ

1966年 東京プロレスを発足するも、3ヶ月で解散、日本プロレスに復帰

1971年 女優・倍賞美津子さんと結婚(のち1987年に離婚)

1972年 新日本プロレス設立

1976年 モハメド・アリとの世紀の一戦

1982年 猪木監禁事件(梶原一騎氏による監禁事件)

1989年 スポーツ平和党を立ち上げ、史上初のレスラー出身の参議院議員に。

同年、講演中に刃物で頸部を切りつけられる。

1994年 現役引退

1995年 参議院議員選挙で落選となる。

2002年 新日本プロレス30周年には、一緒に立ち上げた倍賞美津子さんもシークレットゲストに登場

2013年 参議院議員選挙に当選し国政に復帰

2019年 参議員議員選は出馬せず政界引退

同年   「100万人に数人」の特定疾患とされるアミロイドーシスに羅患。

 

 

「猪木信者」の有名人は?

幅広く厚い層でカリスマ的な存在のアントニオ猪木さん。猪木さんとともに青春を過ごした熱狂的なファンが多くいることは無論ですよね。この熱い猪木さんファンのことを「猪木信者」と言います。この信者には、芸能人も数多くいることも至極当然。彼らは、猪木さんのことを「会長」「先生」と崇拝する気持ちを込めて呼んでいたります。

その芸能人「猪木信者」は、

桑田佳祐さん サザンのライブではには、「ダァー!」をやるのが恒例。桑田さんも顎を突き出すファイティングポーズが大好き。著書で「プロレスで一番いい男は、アントニオ猪木、プロ野球は長嶋茂雄、怪獣ならゴジラ」と発言しています。

桜井和寿さん Mr.Childrenの「one two three」という曲の中に、アントニオ猪木選手の引退時のスピーチ、「この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となり、 その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ。 行くぞ~!! 1・2・3 ダ~!!」という詩を入れています。

和田竜二さん 宝塚記念、有馬記念で「ダァー!」を披露。

森岡龍三さん アジア戦優勝した際に「ダァー!」を披露。

倉持隆夫アナウンサー(元日本テレビ)全日本プロレス中継担当でしたが、退社後に信者であると公表。

春一番さん 残念ながら春一番さんは2014年にお亡くなりになってしまいましたが、小学校の時から卒アルに「猪木さんそっくりのレスラーになる」と記すほどの猪木信者で、猪木さんのモノマネでブレイクしたことも周知ですよね。2005年には、春一番さんが腎不全でICUに運ばれた時には猪木さん自身が見舞いに訪れ、「気合いの一発」を入れ回復したと言われています。しかし、2014年肝硬変の為、47歳の若さで他界。猪木さんも葬儀に参列し、あえて春一番さんを想い「元気ですかー」と追悼の言葉を贈りました。

石橋貴明さん 石橋貴明さんや南原清隆さんなど猪木信者でも知られ、かなり昔から猪木さんモノマネを披露していたかもしれません。

 

世紀の一戦「猪木VSモハメド・アリ」戦の裏側

出典テレビ朝日

1976年の「猪木VSモハメド・アリ」戦は、「世紀の一戦」として、日米のスポーツ界の歴史としても刻まれるほどの大きな試合でしたよね。

WBA/WBC世界ヘビー級チャンピオンでもあるモハメド・アリ選手を呼んで武道館で行った前代未聞の世界ボクシング世界頂点との猪木選手の格闘技世界一決定戦。

実は、アリ選手は、猪木選手との試合を、エキシビジョンと捉えており、本気の試合とは思っていなかったそうで、来日してから事実を知ったアリ選手は辞退を示唆、すると、ルールを大幅変えることとなり、プロレスの技が大きく省かれるルールとなりました。そんな新ルールで臨んだ試合。猪木選手は、戦える技が少ない中、寝ながらアリ選手の足を狙う戦法に出ました。しかし、3分15戦をほぼこのスタイルで終了し。結局、判定は引き分けに。激戦もなく終始変わらぬ試合でしたが、試合後、アリ選手の太ももは腫れ上がり入院。もし遅かったらボクシング生命も危ぶむほどの打撃を受けていたそうです。

出典デイリー

賞金は?そもそも、きっかけは1975年、日本レスリング協会会長八田氏に、アリ選手が「100万ドルで俺に挑戦する東洋人はいるのか?」とハッパをかけたことが発端。アリ選手はリップサービスのつもりでいましたが、これを聞きつけた猪木選手が、「1000万ドル(当時の価格で30億円)で、素手の試合はどうだと挑戦状を送りました。(実はジャイアント馬場選手も名乗り出ていた。)アリも承諾するとマスコミも聞きつけ話題となりましたが、金額が折り合わず難航し、アリ選手に、興行収益の一部を入れた610万ドル支払うことで合意。ちなみに610万ドルの内訳は、前払金180万ドル、試合後に120万ドル、興行収益から310万ドルでしたが、結果的に興行失敗に終わり、支払われたのは300万ドルのみだったようです。

これらのギャラも、猪木さん側はメディア(テレビ朝日、東京スポーツなど)に借金にて支払ったようで、全てやることが大きい猪木選手の借金が多い理由の一つになります。

さて、そんな世紀の一戦を戦った「猪木VSモハメド・アリ」戦でしたが、猪木選手とは、その後も、交流が続きましたよね。1988年、猪木選手の最後の引退試合にはアリ選手も駆けつけました。この時、アリ選手は病気を患っており、13時間のフライトをかけてまで猪木選手の引退式にかけつけるほど、親しい仲だということがわかります。

 

 

猪木が監禁された、あの事件とは?!

スポーツ界だけでなく、実在するヒーローのような、国民中が、猪木選手の存在が大きかったのではと思います。しかし、そんな中、あの猪木選手が監禁される事件が、、、。

1982年、スポコン漫画のパイオニアでもあり、「巨人の星」「明日のジョー」など多くのヒット漫画の原作者・梶原一騎氏よる監禁事件。梶原氏は暴力団関係者を使い、猪木選手を大阪リーガロイヤルホテルリーガロイヤルホテルに呼び出し、拳銃を持っていると仄めかし脅迫したとされています。監禁した理由は、梶原氏が言うには、タイガーマスクのキャラクター使用料を猪木さん側が音信不通で支払いをしなくなったためだそうで、たまたまホテルで出会い部屋に招いたと、監禁は冤罪だと語っています。

 

 

猪木イズム

1998年、アントニオ猪木さんがが綴った170の名言と16のストーリーの本「猪木イズム」あります。猪木選手はプロレスだけでなく、スポーツの枠を超えて多くのことを私たちに残しています。

この本だけでなく猪木選手の生き方「イノキイズム」私たちになじみのある、あの「名言」として数多く親しまれていますよね。

 

猪木 名言集

「元気ですかーっ!」

この由来はいつからか定かではありませんが、猪木さんがプロレスを引退し国会議員になり久しぶりにリングに上がった際に「元気ーですかー?」と発したのがきっかけではないかと思われます。

「元気があれば何でもできる」

元気ですかーと一緒に使われています。本当にこの言葉は、シンプルなのに人を動かす力のある名言ですよね。

「ダァーッ!」

もともと猪木選手が試合で行っていた「ダー」のパフォーマンスですが、1990年の2月10日東京ドームの試合後に行ったことが注目され、現在のあの「ダーッ!」に。

「ボンバイエ」

この「ボンバイエ」は猪木選手の入場テーマ曲の「猪木ボンバイエ」から来たものですが、もともとは、「アリVS猪木」戦で、アリ選手から、猪木選手に贈られた曲だったことを前述しました。さてこの「ボンバイエ」という言葉は、コンゴ民主共和国などで使われているリンガラ語で、「やっちまえ」という意味だそうです。

他には、「バカヤロー」、「闘魂ビンタ」

など、たくさんの言葉やパフォーマンスがあります。

ちなみに、「「猪木イズム」、「闘魂」「ボンバイエ」も商標登録されています。

猪木選手はたくさんの名言がありますが、ご存知のように昭和の時代、土曜夜(のちに日曜夜に放送変更)にプロレス中継があり、猪木選手の戦った技や、言葉などが、多くの子供達が、次の週の月曜日には学校でマネをしていましたよね。子供だけではなく、お笑い芸人さんなど大人でも猪木さんのモノマネをして親しんでいましたね。

猪木さんの家族、そして4回の結婚

さて、猪木さんのプライベートですが、4回の結婚をしています。

渡米時代 アメリカ人人の女性リンダさんと最初の結婚

女優・倍賞美津子さん 1億円の挙式が話題に。

そして、長女寛子さんが生まれるも、1987年に離婚。

そのあと、22歳年下の一般女性と結婚

そして、4度目の結婚は、16歳年下の一般女性。2019年に奥様は他界しています。

 

長女・猪木寛子さん

倍賞美津子さんとの間に誕生した長女・猪木寛子さんが、

ミュージカル『アニー』のアニー役で主演を務めていました。

寛子さんは、猪木さんがが運営していたインターナショナルスクール通っていた頃の同校生で、新日本プロレスの前社長、サイモン・ケリー猪木さんと結婚。2児をもうけますが、2016年に離婚しています。

ちなみにこと時のダブル主役の一方は、日本の政治家・衆議院議員の山尾志桜里さん。

 

 

 

最後に

アントニオ猪木さんを実績と功績が大きすぎて、今回はかな〜り割愛したダイジェスト版。猪木選手のほんの一部の歴史ですが、昭和の時代に私たちを楽しませてくれた愛するアントニオ猪木さんのことを記したくダイジェストに書かせていただきました。また次回は、もっと踏み入った猪木さん情報をお送りしたいと思います。

感動した猪木選手引退のスピーチ

「わたしは今、感動と感激、そしてすばらしい空間の中に立っています。心の奥底からわきあがる皆様に対する感謝と熱い思いをとめることができません。

カウントダウンが始まってからかなりの時間がたちました。いよいよ今日がこのガウン姿が最後となります。思えば右も左もわからない、一人の青年が力道山の手によってブラジルから連れ戻されました。それから38年もの月日が流れてしまいました。最初にこのリングに立った時は興奮と緊張で胸が張り裂けんばかりでしたが、今日はこのような大勢の皆様の前で最後の御挨拶ができるということは、本当に熱い思いで言葉になりません。

私は色紙にいつの日か闘魂という文字を書くようになりました。それを称してある人が燃える闘魂と名付けてくれました。闘魂とは己に打ち克つ、そして戦いを通じて己の魂を磨いていくことだと思います。

最後に私から皆様にメッセージをおくりたいと思います。

人は歩みをとめたときに、そして挑戦をあきらめた時に年老いていくのだと思います。この道を行けばどうなるものか。あやぶむなかれ。歩まずば道は無し。踏み出せばそのひと足が道となり、そのひと足が道となる。迷わずいけよ、いけばわかるさ。アリガトー!」

 

猪木さんの:You Tubeチャンネル

アントニオ猪木「最後の闘魂

現在闘病中絵あるアントニオ猪木さんに、感謝とエールを贈りたいと思います。早く元気になって、あの気合いの言葉をたくさん聞きたいですね。

 

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